渉君と初めて会った時、その人懐っこさと、他人を寄せ付けない鋭い視線に魅了されました。同時に、彼が歩んできた人生の複雑さを想うとやるせなさを覚えました。そんな彼を受け入れ、彼の居場所を作り続ける網谷勇気さんもまた、人とは違った人生を生きています。私の映画作りはいつも、到底理解することなどできない他者を、知りたいと思うところから始まるのだと思います。そして彼らは、自らの人生について物語り、言葉を尽くし、行動してくれました。私は彼らの言葉にそっと耳を傾け、その人生の一瞬を捉え、皆さんに手渡すことができればと思っています。
一見するとこの映画は、数奇な運命を辿った2人の、少し変わった物語のように感じるかもしれません。しかし彼らの人生は、私たち社会によって様々な困難を強いられています。もし今、彼らのように生きる人たちが生きづらさを感じているならば、それは我々が作り上げてきた社会の側に責任があるのです。多様性が叫ばれるようになり、社会の価値観も変容してきました。それに合わせて、家族観が変化することも必然です。私たちは新たな人間関係の構築の仕方を模索しなければいけない時期にきています。この映画をきっかけに、一緒に考えていけたらと思っています。
『二十歳の息子』 監督 島田隆一
養子縁組が成立した中年男性と青年は遠慮し合って互いに踏み込まない。
そんな距離感の親子や家族もあり得ることだ。
ドキュメンタリーであることを忘れ、
劇映画みたいな印象すらあるが、
登場人物が醸し出す深いコクはまさに生きている人間だ。
わざわざ当事者になること…が、ものすごく繊細に映されている。
それこそ、映画開始数秒後から映されている。
「誰もが当事者なのだ」と言うのは簡単だ。それは確かに正しい。
でも、そんな陳腐な言葉では伝えきれないものが映されている。
この父子を通して、「やさしさ」を阻むものはなにか。
誰もが考えアクションをとるきっかけにしてほしい。
家族であるという前提から始まる世間一般の家族とは逆に、
家族であるという結論に向かって歩む未だ父でも息子でもない二人は、
希望に、家族に、たどり着けるのだろうか?
人生は開かれている。それを紡ぐのは意志でしかない。
私たちにとってもまた。
この映画で聞こえてくるのは、決して耳馴染みのいい言葉ではない。
映画は現実逃避のための芸術などではなく、
むしろ現実に向き合うことを強いてくる刃物なのだ。
その切先で流れ出た血が、いまも止まらない。
『ゆきゆきて、神軍』さえ想起させるスリリングな傑作だ。
テロップ説明やナレーションなどの誘導は無く、
映画としてのドキュメンタリーはかくあるべしと快哉を叫ばずにいられない。
天涯孤独な青年と、彼の父親になることにしたゲイの男性。
彼らは父と息子になるだけでなく、さらに家族をつなげ、かたちづくっていく。
きれい事ではない挑戦の先に、ほのあたたかい灯りがみえる。
非常にリアルな存在として胸に迫るものがありました。
映画をみている間、
なんらかのかたちのハッピーエンドで終わってほしいと、
なぜか祈りました。
じぶんが勝手に抱くハッピーエンドという枠に収まらないお二人を見つめながら、
他者を理解したいという希求、欲望、
他の人格をじぶんの理解内のものにしようとする支配欲や矮小化、
そのような感情や思考をじぶんの中にみました。
社会の中で他者と生きるということについて、
体当たりでパスされたような感じがして、
心が揺らぎました。
いつでも優しく疲れていてふと泣きだしそうな網谷さんの表情。
二人は何を考え、何を感じているのだろう。
なぜ養子縁組を――しかし、そこに何か「謎」はあるのだろうか。
そんなものはないのではないか。
ただ画面を見つめようと思った。
理解したつもりにならず。内なる闇や衝動を想像するのでもなく。
家族関係の壊れや感情の激化によって映画が盛り上がる、
きっとそういう風にはならないだろう、という信頼がおのずと芽生えていた。
物語による感情の浄化とは無縁であり、
真実を表象するドキュメンタリーにも行き着くことがなく、
映画それ自体が穏やかなままクィアな時間を生きている。
そんな感じがした。ずっと怒っているし、ずっと悲しんでいる。
そんな人たちは、不穏なほどに優しいのかもしれない。